C57は製造年次の違いから、1〜4次形に分けられます。
●1次形 | 1〜138号 | 昭和12年(1937)〜昭和15年(1939) | |||||||||||||||||||||||||||||||
途中汽車会社がD51の製造と、翌年昭和13年から C58製造の中心となった為、12年のみで担当から外れました。 こうして、、旅客列車増発・増結に対応する為と、 車令20年を過ぎていたC51を置き換えるために、 東海道・山陽・東北・常磐・高崎・信越・北陸などの 幹線に優先的に投入されました。 |
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●2次形 | 139〜169号 | 昭和16年(1940)〜昭和18年(1942) | |||||||||||||||||||||||||||||||
日支事変、第二次大戦の情勢不安により、 資材の節約を余儀なくされ、炭水車台車が鋳鋼製から軸バネを装備した板台枠になりました。 昭和16年以降、東海道・山陽線へヘヴィーパシフィックC59を投入する為、 生産台数が落ちます。 関門トンネル開通に伴い、1942年から九州方面への導入が進みます。 当時、延長運転された特急「富士」の門司〜長崎間を担当したり等で、 C57は、特急牽引機の役目も果たすようになりました。 然し、1942年より軍需として貨物輸送重視の傾向になり、 この年で生産休止となります。 |
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●3次形 | 170〜189号 | 昭和21年(1946) | |||||||||||||||||||||||||||||||
終戦後、旅客中心の輸送需要に移行し、 貨物用のD51・D52が生産中止となって、C57、C59の旅客機関車が製造再開となりました。 炭水車台枠が鋳鋼製に戻り、 前、従輪がスポークからD51・D52用に準備されていたディスク式になり。 放熱管(コンプレッサーで作られた圧縮空気を冷やす為の物。) が空気溜の上からランボードの下に移ります。 この頃、戦後の混乱期で製造形式を割り振った結果、 C57は三菱重工のみの担当となりました。 (ちなみにC59は川崎車輌と日立製作所、C58が汽車製造、C11・C12は日本車輌だった) |
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●4次形 | 190〜201号 | 昭和21年(1946)〜昭和22年(1947) | |||||||||||||||||||||||||||||||
C59を応用した造りになり、 ボイラー直径が太くなり、除煙板の前端上部が斜めに少し切り取られます。 キャブも密閉式となり動力逆転機が入り、 炭水車も船底型に変更されました。 この頃から、政策上、C61・C62の生産が中心となり、 C57・C59の代替形式として必要となる本線旅客用蒸機として、 新たに活動が見込まれる事から、 昭和22年を持ってC57は生産が終わりました。 3次形より、東北線盛岡以南、奥羽線秋田以南、羽越線が加わり、 4次形からは北海道にも配属され、小樽築港配属の上で、 函館、根室線で運用されるようになりました |
(参考資料 形式C57 イカロス出版より)
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