3.C57の歴史


C57は製造年次の違いから、1〜4次形に分けられます。

●1次形   1〜138号 昭和12年(1937)〜昭和15年(1939)


昭和12年
川崎車輌 1〜7
三菱重工 13.14
日立製作所 33.34
汽車会社 8〜12
昭和13年
川崎車輌 15〜32
45〜50
61〜72
三菱重工 41〜44
51〜60
73〜78
日立製作所 35〜40
昭和14年
川崎車輌 101〜108
三菱重工 79〜86
109〜124
日立製作所 87〜100
昭和15年
三菱重工 125〜138


途中汽車会社がD51の製造と、翌年昭和13年から
C58製造の中心となった為、12年のみで担当から外れました。

こうして、、旅客列車増発・増結に対応する為と、
車令20年を過ぎていたC51を置き換えるために、
東海道・山陽・東北・常磐・高崎・信越・北陸などの
幹線に優先的に投入されました。
●2次形 139〜169号 昭和16年(1940)〜昭和18年(1942)


昭和15年
三菱重工 139〜150
昭和16年
三菱重工 151.152
昭和17年
川崎車輌 153〜159
三菱重工 160〜169

日支事変、第二次大戦の情勢不安により、
資材の節約を余儀なくされ、炭水車台車が鋳鋼製から軸バネを装備した
板台枠になりました。


昭和16年以降、東海道・山陽線へヘヴィーパシフィックC59を投入する為、
生産台数が落ちます。

関門トンネル開通に伴い、1942年から九州方面への導入が進みます。
当時、延長運転された特急「富士」の門司〜長崎間を担当したり等で、
C57は、特急牽引機の役目も果たすようになりました。

然し、1942年より軍需として貨物輸送重視の傾向になり、
この年で生産休止となります。
●3次形 170〜189号 昭和21年(1946)

昭和21年
三菱重工 170〜189

終戦後、旅客中心の輸送需要に移行し、
貨物用のD51・D52が生産中止となって、C57、C59の旅客機関車が製造再開となりました。

炭水車台枠が
鋳鋼製に戻り、
前、従輪がスポークからD51・D52用に準備されていた
ディスク式になり。
放熱管(コンプレッサーで作られた圧縮空気を冷やす為の物。)
が空気溜の上からランボードの下に移ります

この頃、戦後の混乱期で製造形式を割り振った結果、
C57は三菱重工のみの担当となりました。

(ちなみにC59は川崎車輌と日立製作所、C58が汽車製造、C11・C12は日本車輌だった)
●4次形 190〜201号 昭和21年(1946)〜昭和22年(1947)

昭和21年
三菱重工 190
昭和22年
三菱重工 191〜201

C59を応用した造りになり、
ボイラー直径が太くなり、
除煙板の前端上部が斜めに少し切り取られます。
キャブも密閉式となり動力逆転機
が入り、
炭水車も
船底型に変更されました。

この頃から、政策上、C61・C62の生産が中心となり、
C57・C59の代替形式として必要となる本線旅客用蒸機として、
新たに活動が見込まれる事から、
昭和22年を持ってC57は生産が終わりました。

3次形より、東北線盛岡以南、奥羽線秋田以南、羽越線が加わり、
4次形からは北海道にも配属され、小樽築港配属の上で、
函館、根室線で運用されるようになりました


(参考資料 形式C57 イカロス出版より)


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